教会は、いつでも、すべての人に開かれています。

教会は、すべての人のための「神の家」です。この家は、どの民族の人にも、どの国籍の人にも開かれています。

洗礼を受けている人にも、受けていない人にも開かれています。

 どうぞ、初めての方もご遠慮なくお越しください。

 

     === お知らせ ===

コロナウイルス感染拡大防止の緊急事態宣言が新たに8月17日に発表されて、9月30日まで延期されました

これに伴って、大阪大司教区・前田万葉大司教からも(コロナウイルス感染に伴う措置(第15次)大阪府内、兵庫県の教会では、

公開の主日ミサ(朝ミサ、金曜日のミサ含む)を中止となりました

この間、非公開でのミサは行われ主任司祭はお祈りしています。

また、すべての行事、掃除、受付当番も中止となります。

 


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新型コロナウイルス感染症に苦しむ世界のための祈り

 

いつくしみ深い神よ、

新型コロナウイルスの感染拡大によって、

今、大きな困難の中にある世界を顧みてください。

病に苦しむ人に必要な医療が施され、

感染の終息に向けて取り組むすべての人、

医療従事者、病者に寄り添う人の健康が守られますように。

亡くなった人が永遠のみ国に迎え入れられ、

尽きることのない安らぎに満たされますように。

 

 

 

 

 

不安と混乱に直面しているすべての人に、

支援の手が差し伸べられますように。

希望の源である神よ、

わたしたちが感染拡大を防ぐための犠牲を惜しまず、

世界のすべての人と助け合って、

この危機を乗り越えることができるようお導きください。

わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

希望と慰めのよりどころである聖マリア、

苦難のうちにあるわたしたちのためにお祈りください。

                2020年4月3日 日本カトリック司教協議会認可



広報紙「かしの木」 7月号より

          カトリックの処方箋

                                            主任司祭 矢野吉久

    人間は美しい弱めを持っています

    それは祈ることと愛することです

                アルスの聖ヴィアンネ

 

 新型コロナウイルスの感染拡大が収まりません。私たちはとても厳しい状況に晒されています。

 緊急事態宣言が出され、それに合わせて宣言が出された地域の教会はミサが非公開となりました。日曜日には教会へ行き、ミサにあずかり、み言葉(聖書)を聴き、ご聖体を頂くことが当たり前と思っていた私たちですが、ミサにあずかれない、教会に行けない、とは誰が想像できたでしょう。悲しくて、寂しくて、残念でなりません。

 しかし、心にとどめておいて頂きたいことがあります。ミサは非公開であって中止しているのではないことです。ミサは日曜日は勿論、週日も捧げ続けられています。教会は祈り続けています。生きている全ての人々、亡くなった全ての人々のために。お休みではありません。「ミサ」と「教会の祈り」(聖務日課)と言われる時間ごとの祈りは司祭や修道者を中心に続けられています。その祈りの輪の中に皆さんも居るのです。今は密を避けて皆で集まらないだけです。お互いの姿は見えませんが心を合わせて共に祈りましょう。

 ミサにあずかれない時、秘跡を頂けない時、私たちは信仰の先輩たちがやってきたことから学びを思います。その先輩たちとは、たとえば江戸時代のキリシタンたちです。迫害下200年以上に渡り司祭不在、秘跡もなく、しかし信仰を守り抜きました。守ることが出来たのは祈り続けたからです。ことに彼らは「ロザリオの祈り」と「こんちりさんのりやく」(完全なる痛快の祈り)を大切に繰り返し祈ったようです。今日「こんちりさんのりやく」の祈りは唱えることはありません。(主任司祭が文語の祈りを持っています。ご覧になりたい方はどうぞ)ロザリオの祈りは歴代の教皇様が勧めておられる祈りです。フランシスコ教皇様も祈ることを強く勧めておられます。聖書を読み祈ること。コロナ禍を生きる知恵と力をそこから汲み取りましょう。

 新型コロナウイルスの感染拡大という事実を変えることは出来ませんが、その意味は変えることが出来ると信じています。その意味を祈りの中で見つけてゆきましょう。

 

 コロナ禍をどう考えどう生きるのか、そのヒントになる本をご紹介します。

著者は前東京大司教区補佐司教

『「今を生きる」そのために 苦しみ、悩み、怖れ、無関心からの脱却』森 一弘 著 出版社:扶桑社 1500+税

(主任司祭の手許に少しストックがあります)


新型コロナウイルス感染症緊急募金 受付開始

カリタスジャパンでは新型コロナウイルス感染症の感染拡大に伴い、緊急支援募金を始めました。

詳細はカリタスジャパンのホームページをご覧ください。

募金受付口座は次の通りです:

郵便振替: 00170-5-95979

加入者名: 宗教法人カトリック中央協議会 カリタスジャパン

 *記入欄に「新型コロナ緊急募金」と明記してください。

 



お知らせ



★ 「街角カフェ・ほっこりは8月2日より31日まで、コロナウイルス感染症の緊急事態宣言が発令されましたのでお休みです



「麦の会」へのお誘い ~教会内の集い

聖書はキリスト教信者にとってとても大切な生きる糧です。
私たち「麦の会」では聖書を読みながらみ言葉に支えられ、生活の中のさまざまな事柄、苦しいこと、悲しいこと、嬉しいこと、社会の出来事などを話し合っています。
聖書を学ぶ集まりではありません。
ご一緒に語り合いませんか。どなたでも参加できます。ご遠慮なくお越しください。
ただいま、お休みです。
問い合わせ先:麦の会 笠松ひろみ
電話072-722-0271

キリスト教入門講座

 原則     第1・第3・第4日曜日の10時のミサ後

 

 キリスト教入信を考えておられる未洗者の方を対象に入門講座を行なっています。詳しくは矢野神父にお尋ねください。

 できるだけご希望に沿う形で行いますので、日程などご希望は遠慮なくご相談ください。

こひつじの会は新型コロナウイルスの感染状況を見ながら行います。詳細は担当者から連絡が入ります。 

 

                  青少年委員会

「ラファエラの会」へのお誘い

この春から、小さいこどもとお母さんの集まる会を始めています。少しお祈りして、子どもをおもちゃで遊ばせながら、離乳食のこと、遊び場所のことなどお茶を飲みながらゆっくりお話しています。前回はとっても暑かったのでビニールプールを出して、水遊びをしました。こどもたちにとって教会が楽しいところと思えるように、また子育て中のお母さんたちにとっては、情報交換できるホッとできる場所になれば、と思っています。1回ほどの不定期な集まりです。興味のある方、一度遊びに来てください!(トビアスの旅を見守りながらささえていたラファエルにちなんで、この名前をいただきました。)日程は、月間予定でご確認ください。



広報紙「かしの木」 4月号巻頭言

カトリックの処方箋

主イエス・キリストのご復活おめでとうございます

主任司祭 矢野𠮷久

 

喪の夜は明けました。週のはじめの明け方近く、マグダラのマリアはイエス様のお墓に行きました。数名の婦人たちもペトロもヨハネも行きました。そこで見たものはからっぽのお墓でした。そして信じました。主はよみがえられたと。からっぽのお墓を見た彼らは、からっぽのお墓の先に在るものを見たのです。心の深みで見たのです。そして信じたのです。主はよみがえられた!心臓が血液が悩がどうなったかとこだわっている限り復活はわかりません。サン・テグジュペリの有名な『星の王子さま』の中に、きつねと王子さまの対話があります。キツネが言います。「・・・心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ」「かんじんなことは、目に見えない」と王子さまは忘れないようにくりかえしました。(岩波書店) この「見る」は「観る」という字がふさわしいかと。

復活の日の夕方にあった出来事をヨハネとルカは福音書の中で語っています。ヨハネの方は、復活したイエスは弟子たちに現れたこと(20章)ルカは二人の弟子がエマオに行く途中に復活のイエスと出会ったこと(24章)を伝えています。エマオの旅人について島崎光正というキリスト教詩人はひとつの詩を書いています。

 

「エマオ途上」

 

エマオ村に向う 足の重い二人の弟子に 復活よみがえりのイエスは加わった

それとは知れず 互いに 話はアネモネの花のように心にはずみ

虫ばまれた丸木橋の上では イエスが一番先に渡り

また三人で並んで旅をいった

 

 

 

コロナ禍という人生の重大な、そしておそろしい現実の中に在って不安になりますが、私たちもエマオの旅人の一人です。復活のイエス様が近づいて一緒に歩いて下さっていることを固く信じましょう。コロナの喪もきっと明けます。

広報紙「かしの木」2月号巻頭言



カトリック信者の処方箋

主任司祭 矢野𠮷

コロナ禍に在ってキリスト者としてどう歩むのか

 

 2020年は新型コロナウイルス感染症に振り回された一年でした。その新型コロナは年を超え、2021年はこのコロナウイルスと共に明けました。目に見えない存在だけに余計に厄介で怖いものです。

 聖書には悪魔とか悪霊についての話がよく出てきます。「サタン」の訳ですがその意味は「試みる者」「引き裂く者」という意味があります。」人に試練を与え、人と人をしいては神と人を引き裂く黒い、しかも強い力として聖書に登場します。コロナの存在、働きも実にサタン的であります。パリ在住の作家 辻仁成さんがその著書『なぜ、生きているのかと考えてみるのが今かもしれない』(あさ出版)の中で「このウイルスの正体は人間を引き裂く悪魔なのだ。このウイルスは簡単に言ってしまえば人間と人間を引き裂く兵器のようなもの……」(P141以下)と言っています。私も全く同感で、コロナの本当の恐ろしさはここにあると思うのです。

 コロナ禍でよく言われる“ソーシャル・ディスタンス”という言葉も気になります。「社会的距離」と訳され、この用語が一般に使われていますが、正確には“ソーシャル・ディスタンシング”と言われ「社会的・物理的距離の確保」なのです。私たちが気をつけるべきことは、物理的距離なのであって、社会的距離ではありません。ことにキリスト者は留意しておかなければなりません。

聖書にあります。「人が独り(孤独)でいるのはよくない」(創世記218節)と。最近日本の教会の中でソーシャル・ディスタンスという言葉に代えてフィジカル・ディスタンス(身体的・物理的距離)という表現が用いられるようになって来ました(まだそれ程広がってはいませんが)。人と人との関係が砂漠のようにならないように、人との身体的・物理的距離があればあるほど 隣人を想う心が強くなるようにと切に願い工夫してゆきましょう。

 

私たちキリスト者は何よりも神様を信じる者であります。「神様は御父はいつも私たちの側に居て下さる」ことを信じています。「コロナがどんなに強くても大変でも うちのお父ちゃんの方がもっと強いんやで!」固く心に決めて今日を生きる者です。

カトリックの処方箋

主任司祭 矢 野 𠮷 久

 

今回も献金について書きます。またか と思われる方もおられると思いますが、地上を旅する教会は浮世離れしたものであってはならず、信仰と生活が遊離してはなりません。現実をしっかり見つめることは必要です。教会活動の全ては信者の皆さんの献金によってまかなわれているのです。

献金は教会的な行為であります。会費や負担金ではありません。信仰の表現であり何より神様に対する感謝のしるしなのです。額の問題ではなく、自分なりに精いっぱいの気持ちがあれば良いのです。7月号の『かしの木』のこの欄で 創世記4章の“カインとアベル”のことに少しふれましたが、彼らが献げ物をする時のことを聖書を引用してその違いを知ろうと思います。「アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持ってきた。アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。」とあり 主なる神様はアベルの献げ物に目を留められたのです。(2-4節)カインは出来た作物をただ持って来て献げ、アベルは持っている羊の中で一番大切で良い物を献げたのです。神に献げ物を献げる心がまえが違っていました。新約聖書に 貧しいやもめの献金の話があります。イエス様が神殿の献金箱に献金を入れている人々を見て、その中で貧しいやもめがほんのわずかの献金を入れたことを「彼女は誰よりも沢山入れた。みんなはあり余る金の中から献金をしたが彼女は生活費の全部を入れたのだ」と言われ彼女をたたえました。(マルコ1241以下,ルカ211以下)

 

旧約のアベルのように、新約の貧しいやもめのような気持ちを持って献金をしましょう。献金は支払うものではなく献げて納めるものです。神様に!!!

カトリックの処方箋(9月号)

主任司祭  矢野𠮷久

 

 コロナウイルス感染症の猛威は収まりません。世界が何となくノアの箱舟になったような感じです。

7月の『かしの木』に 献金についてこれから学びましょう と書きました。その後プロテスタントの友人から、「コロナは長引きます。少なくとも12年はかかるでしょう。そうなるとつぶれる教会も出てきますよ」と言われ、「教会がつぶれる?!」とびっくりしました。カトリックとプロテスタントではいろいろ事情も違い一概には言えませんが、同じように信者の方々の献金によって教会は支えられています。

私たちのカトリック箕面教会の現実も厳しいものがあります。毎年教会への献金額は少なくなっており、今年はそれに加えて3カ月も公開ミサが行えず献金は大きく減りました。(信徒集会用の資料、特にP21P28をよく読んで下さい)

 

献金は献げものです。何を献げるかという姿勢が問題です。精一杯の真心を献げる姿勢があれば、おのずと形に現れてくるものです。聖書に献げ物についての記述がはじめて出てくるのは創世記4章 カインとアベルの兄弟の献げ物のお話しです。二人の献げ物の真心を問う主なる神、そしてその後の兄弟のトラブル。献げ物(献金)は真心と意向が大切です。このことに無関心であってはいけないのです。旧約聖書によれば献げ物は神様の恵みに対する人間側の応答なのです。「土地から取れる収穫の十分の一は、穀物であれ、果実であれ、主のものである。それは聖なるもので主に属する」(レビ記2730節)このゆえに「イスラエルの人々は穀物、ぶどう酒、油、蜜など畑のあらゆる産物の初物を大量にささげ、また あらゆる物の十分の一を大量に運んで来た」(歴代誌下315節)とあります。これにならってプロテスタントでは十一といち献金と言って、収入の十分の一を先ず神様に献げる方も多くいらっしゃるそうです。カトリックではそれ程まで強く言いませんが、その心意気はならいたいものです。さて新約聖書では献げ物(献金)についてどう言っているのでしょうか、次回に。

 

カトリック信者の処方箋(7月号)

                                                                      主任司祭

                                                                      矢野 𠮷久

 新型コロナウィルス感染拡大のため、三ヶ月余りの間私たちはミサにつどうことが出来ませんでした。 6 月に入りようやくミサが公開され、主日ごとに教会につどいミサを捧げることが出来るようになりました。教会に来ることが出来ず、ミサや秘跡に近づくことが出来ないという今までとは異なった信仰生活からやっと解放されました。教会が完全に元の姿に戻るためにはまだまだ時間が必要でしょうが、何はともあれ皆さんとミサを守り祝えることは嬉しいことです。

 さて、“カトリック信者の処方箋“と題して教会の定めた掟について学んできましたが、今回か ら数回に渡ってその5番目「おのおの分に応じて教会財政を助けること。」すなわち献金・維持費についてその基本になる考えを学びたいと思います。

 地上を旅する教会は天上のことを思うだけではなく、地上のことにも配慮しながら旅を続けています。宣教や司牧といった教会活動には活動経費が、また電気、ガス、水道といった必要経費も支払われなければなりません。教会はそのすべてを皆さんの献金によってまかなっています。収入は献金のみでありそれ以外にどこからも入金はありません。バチカンのローマ教皇庁からも諸外国からも送金はありません。

 献金の主なものは、ミサ中の堂内献金、維持費と呼ばれる月定献金、特定の意向によって納められる特別献金があります。教会はこれ等の献金によって運営されています。

 献金について正しく学びましょう。信仰生活への問いでもあり見直しにもなります。聖書や教会の伝統から学びましょう。